ホモ・ルーデンス
ホイジンガ



歌うネアンデルタール
スティーヴン・ミズン



遊びと人間
ロジェ・カイヨワ


001 こどもと遊び

◎なぜこどもはこれほどまでに遊ぶのか。遊んでばかりいないで勉強しなさいという小言もあるが、遊びはこどもの仕事という言葉もある。サラリーマンが少し羽目をはずすと「こどもみたい」と言われる。また老人がこどものように見えるのはなぜか。これがずっと気になっていた。

◎様々なこども論や遊び論に目を通してみたが、どうもしっくりこない。まだホイジンガ以降の仕事が見当たらない。おそらくそれらに共通しているのはなんの疑いもなく大人の視点で書かれているからだろう。なぜこどもがこれほどまでに遊ぶのかという問いの裏側には、いつ大人が誕生したかという問いが寄り添っている。スティーブン・ミズンは、ネアンデルタール人が歌っていただろうことを予想し、歌は言葉より古いとする。歌をうたっていたネアンデルタール人は大人だったのだろうか。

◎身体的特徴としての大人はこどもを生めるか生めないかという線引きで生まれるが、それがそのまま大人を表しているわけではない。こどもを知るには、まず大人の正体をあばくのがよい。こどもは大人でないからこどもであり、大人はこどもでないから大人である。こどもと大人のあいだに引かれた軸を見るのがよい。

◎いったい「こどもらしさ」と「大人らしさ」はどのようにつくられてきたのか。ひとつ思いあたるのは都市化。都市化といってもまばゆい近代都市のことではなく、ルネサンスあたりからはじまった合理化・機械化による「新しい生活空間」である。まず合理的思考がひろがり、さらにそれが仕掛けとなって機械になっていく。

◎この合理的思考はいったいどこからやってきたのか。多民族・多文化が混交するなかでの棲み分けか、複雑化する生活に対する知恵か。おそらくこのあたりから「社会」のソリッドなイメージがたちあがり、そこに大人の姿を育みはじめたのだろう。「社会人」ということばがそのまま「大人」を連想させる。

◎そしてその後の都市と社会をつくったものとしまずて印刷術と郵便をあげておきたい。これらの技術が集積されていく空間を揺り籠にして「大人らしさ」がつくられていき、同時に「こどもらしさ」がつくられていく。さらにラジオとテレビと電話と新聞と探偵も検討しておきたい。

◎都市のなかでは遊びの姿も変わっていく。素朴な遊びにかわり社会の影を映したゲームが登場する。都市はやがて企業や為替やクレジットなど社会を支える仕組みを構築していく。だが、こどもの目で見るとこれらの仕組みはどこかゲームの匂いがする。戦争にも思わずゲームの姿を見てしまう。

◎こどもの遊びとはなによりもコミュニケーションであった。仲良しとは遊ぶ関係であったのである。

◎もうひとつの問題は「コミュニケーション論」である。経済学、言語論、コミュニケーション論、組織論は近代学問の核をなすが、これらもどこかゲームに続いている。現在のコミュニケーション論はこどもの前では無力である。これはこどものコミュニケーションがまだ未熟なのではなく、コミュニケーション論が未熟であるからだろう。コミュニケーション論はあまりに都市に傾いている。

◎おそらくコミュニケーションとは、なにより共に遊ぶことである。そしてその遊びの基本は「真似ること」である。カイヨワは遊びの四類型のひとつにミミクリ(真似)をあげたが、これが脳のミラーニューロンとともに「伝えること」の基本構造になっているのではないか。真似あうことで伝わっていく。

◎もうひとつ、老人について付け加えておきたい。老人が「こどもらしさ」を取り戻していくようにように見えるのは、都市を失っていくからではないか。

◎すると、遊び、こども、大人、都市、社会、歌、言葉、印刷術、機械、郵便の関係がおぼろげながら見えてくる。これらを遊び学、あるいはこども学として考えたい。