名取洋之助
『NIPPON』 日本の文化を諸外国に宣伝するために作られた雑誌。グローバルな時代といいながら、いまこのようなアプローチがあまりにかけてはいないか。
『岩波写真文庫』 これもいまこそ欲しい。「いま」がまさに図鑑となって届けられていた。少年少女の胸をときめかせるグラフ誌が見あたらない。
『写真の読みかた』 名取洋之助 岩波新書 E81 名取洋之助は記号としての写真に生涯こだわり続けた。ことばのように写真を書き、写真を読む。ここで紹介される組写真は編集の基本。 |
001 名取洋之助(1910〜1962) 明治以降の日本は近代化に戸惑っていた。近代のなかを進めば進むほど、そこは日本から離れていくような気がした。そしてそんな日本を箪笥の奥に仕舞いこみ、近代国家の仲間入りをしたころ、名取洋之助は生まれた。 カメラはまさに近代の象徴だった。名取洋之助はそんな時代に寄り添って生きていた。 名取は、1928年ドイツに渡りミュンヘン美術工芸学校に学ぶ。1931年にウイルシュタイン社の契約写真家となり、1933年に帰国し、木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三と日本工房(第1次)を創設。これはバウハウスが閉鎖された年。バウハウスは表現主義への反動として起こったノイエ・ザハリカイト運動の象徴でもあった。これに関心を寄せていたメンバーが報道写真・図案・工芸・写真をまとめあげてモダンアートとして結実させようとしたものだった。この日本工房が海外への写真・記事の配信とコマーシャル写真を事業として成立させた。 ここは、写真家だけでなく、編集とアート・ディレクションを同時に発揮させた名取洋之助の存在をぬきにしては語れない。 名取にとって報道写真家とは「自分でテーマをきめて撮影し、それをイラストレートすることによって生活している写真家」だった。名取がドイツで学んで来たのはこれだった。美しい写真を撮ればよいのではなく、現実を写し、現実を表すのが名取のめざす写真だった。だから写真を撮っただけでは仕事は終わらない。それを誌面に定着させ、さらに現実を訴えようとした。 翌年第2回展の「報道写真展」で意見の対立を生み、木村、原、伊奈、岡田が脱退し日本工房が分裂する。そして太田英茂、山名文夫、河野鷹思、影山稔雄らとともに、日本工房(第2次)を設立する。この日本工房はさらに「宣伝」の役割をとりこみ、広告部を持たない会社の広告を代行したり、商店や商品の広告宣伝の企画を請け負う。いまでいえば広告代理店になる。 ドイツにいた名取が「日本からくる印刷物がどうも拙劣なものばかり」であることを嘆き、「経済的に許されるならば、なにか外国に出して恥ずかしくないような対外雑誌を出したい」と思ったことに新しい一歩がはじまる。日本工房の宣伝企画業がうまくいかないときに、ドイツからウイルシュタイン社の紹介状を持ってタイレが名取を訪ねてくる。タイレはドイツの珈琲王の出資を得て出版している『ボッカ・シュトラッセ』という雑誌の編集長をしていた。この雑誌は肉筆の原稿や楽譜が何頁にもわたって掲載されたり、世界の一流の学者・文学者・政治家などが執筆する非常に豪華で特殊なものだった。これに着想を得た名取はタイレの協力を仰ぎながら日本文化紹介雑誌の見本をつくりあげる。 そしてこの見本を仕事先でもあった鐘紡に持ちこむ。そして創刊号の資金を得て、念願の欧文グラフ誌『NIPPON』を創刊を準備する。これは英語だけでなく仏語、独語、西語を併用した画期的なものだった。このとき写真家の土門拳、デザイナーの亀倉雄策が入社する。そして1934年10月、『NIPPON』が創刊される。これが日本のグラフ雑誌のさきがけとなる。このとき名取は24歳。『NIPPON』は1934年の創刊から1944年までに36冊の刊行に特別号『日本の手仕事』の37冊がいま確認されている。 この後、名取は次々に対外宣伝誌を手掛けるようになる。1938年に『COMMERCE JAPAN』『SHANGHAI』を刊行、上海にプレス・ユニオン・フォト・サービスを設立する。翌1939年には日本工房を国際報道工芸株式会社に改め、『CANTON』を刊行する。1940年には満州国の宣伝誌『MANCHUKUO』を、1941年にはタイ向けグラフ誌『カウパアプ タワンオーク』を刊行する。 1943年、名取は神田神保町の岩波書店に、岩波茂雄を訪ねる。そして「本当の日中友好のためには、中国にいる日本人の意識を変革し、彼らの教養を高めなければダメだ。そのために岩波文庫を中国で刷りたい。とりあえず日本語版を出し、次には中国人のために、中国版の岩波文庫を出す」という構想を話す。岩波は即刻諒承したが、この計画は実現しない。そして1945年に南京で敗戦を迎え、国際報道工芸社が解散する。上海では侵略者と呼ばれ、担架での帰国となる。 1950年、岩波が『岩波写真文庫』を刊行する。編集長は名取洋之助、編集のチーフが羽仁進だった。「木綿」「昆虫」「南太平洋の捕鯨」「魚の市場」「アメリカ人」「雪の結晶」「写真」「レンズ」「紙」「蝶の一生」「鎌倉」「動物園のけもの」「富士山」という具合に毎号テーマが決められて刊行された。これは写真と編集が絡みあう濃密な文庫だった。1953年に名取は第一回菊池寛賞を受賞する。翌1954年には日本工房(第3次)を設立する。岩波写真文庫は名取の最後の出版事業となった。文庫は1959年まで、286冊刊行される。 名取は1962年に胃癌で息を引き取る。名取のなかにはいつも現実という写真があり、グラフィズムがあり、編集があった。名取洋之助は報道写真家にはじまったが、日本工房という場によってその後の日本を支える数多くの写真家やデザイナーを育てあげた。これが名取の天分であった。 名取洋之助が生涯闘っていたのは自身のなかにある日本だったのかも知れない。 |